桜井哲夫 『フーコーー知と権力』 講談社 2003(ISBN4062743531)

狂気は、未開の状態では、発見されることはありえません。狂気は、ある社会のなかにしか存在しないのです。つまり、狂気というのは、狂気[とされるもの]を孤立させるような感情のあり方、狂気[とされるもの]を排除し、つかまえさせるような反感(嫌悪)のかたちがなければ、存在しないのです。こうして、中世において、そしてルネッサンスにおいても、狂気は、一つの美学的ないし日常的な事実として社会の視野のなかに立ち現れていたのだと言えます。そして、17世紀においてーここから監禁が始まりますー狂気は、沈黙と排除の時代を経験することになります。

ル・モンド』紙(1961年7月23日)のフーコーのインタビューが紹介されていた。(要するに孫引き)
「不況の中、オレ達はリストラに怯えながら、数字に追われながらキリキリ働いてるのに、だらだら寝まくって休みやがって。ムカツク。キー!」という感情のあり方、反感のかたちが大きくなるほど、鬱という病が社会の中で顕在化するんだろうなあ、となんとなく今更なことをエラソーに思ったりした。
ああ、でもなんかちょっと違うかな。